天辰保文さんが執筆活動を始めてから51年。長きに亘り私たちに素晴らしい音楽を紹介してくれていることへの感謝を込めて。ホームページで何かお祝いできればと考えて、天辰さんに聞いてみたかったことを質問するコーナーを作りました。(本当は2023年に50周年をお祝いするつもりが…一年遅れとなりました。)
思いつくままに51問をお聞きしたところ(本当はもっと聞きたい)いろいろ面白い話が出てきました。みなさんにも楽しんでいただけるのではないかと思います。もし機会がありましたら、天辰さんに「おめでとう&ありがとう&これからもよろしく」を伝えていただけたら幸いです。
<天辰さん略歴> | 1949年9月22日 1968年4月 1973年3月 1973年4月 1976年 2023年 | 福岡県生まれ 大阪外国語大学(現大阪大学)入学 大阪外国語大学卒業 新興楽譜出版社(現シンコーミュージック・エンタテイメント)入社 新興楽譜出版社退社、フリーランスとして活動を始める 執筆活動50年を迎える |
1 記憶に残っている一番古い思い出は?
両親と一緒に、映画館で日活や東映の映画をよく見た記憶があります。庶民の娯楽というのが他に余りなかったからかもしれません、昭和の映画全盛期で、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、芦川いづみ、浅丘ルリ子、中村錦之助、片岡千恵蔵、大川橋蔵、大友柳太郎等々スターたちがスクリーンで輝いていました。映画館はいつも満員で、父の肩車で見ていました。
あと、11才の誕生日だったかと思いますが、お祝いにと、父が西鉄ライオンズの試合を見に、平和台球場に連れて行ってくれました。鉄腕稲尾和久投手の現役を見られたことは自慢のひとつです。
2 ご両親はどんな人でしたか?
父は実直なサラリーマンだったと思います。若いころは剣道と書道と尺八をやっていました。鹿児島の人だったせいもあり、年を取ってからは頑固なところが目立ちましたが、読書を含めていつも何かを学ぶという気持ちが強かったように思います。
母は手先が器用な人で、服飾のお店に勤めていたせいもあり、子供のころのぼくの服はほとんど母の手製でした。老いてからは茶に励んでいました。世界で一番ぼくに甘い人でした。
3 天辰さんはどんな子供でしたか?
これはいまも変わりませんが、社交性に欠け、友だちは少ない子供でした。一人っこだったせいもあり、一人で遊んだり、一人でいるのが普通でしたし、当たり前のように身についていました。
4 当時のテレビ番組・ラジオ番組で印象に残っているのは?
『月光仮面』、『快傑ハリマオ』、『隠密剣士』、『兼高かおる世界の旅』、『てなもんや三度笠』、『大相撲中継』、『ローハイド』、『ララミー牧場』、『名犬ラッシー』、『サンセット77』、『鉄腕アトム』、『海底人8823』あたりでしょうか。
5 少年時代に読んだ本やマンガは?
本で記憶にあるのは、シュヴァイツァー博士とか野口英世の伝記で、世の中には立派な人がいるんだなあ、と思ったことでした。漫画だと、『赤胴鈴之助』、『少年ジェット』、『鉄人28号』などですかね、記憶にあるのは。
6 音楽との出会いは?
ラジオやテレビから流れる流行歌(三橋美智也、三波春夫、美空ひばり、フランク永井、春日八郎)や民謡、ハワイアン、ラテン音楽、映画音楽等々を知らない間に聴いていたように思います。その後、中学生になって、友人と海外のポップスを聴いて話題にするようになり、二人で多くの時間を過ごしました。
最近、50年以上ぶりに彼とお酒を呑んで、その頃の話で盛り上がったんですが、彼の父親がいつも出張の際にデパートで最新のシングルを買って来てくれていたというのを初めて聞きました。それを彼の家でぼくと一緒に聴いてたのだと。そうやっていろいろありましたが、決定的だったのは、ビートルズとの出会いでした。
7 初めて買ってもらった/自身で買ったレコードは?
初めて自分で買ったのは、ビートルズの「シー・ラヴズ・ユー/アイル・ゲット・ユー」。レコード以外では、小さなテープレコーダーを買ってもらい、ラジオにマイクを向けて録音して聴いていました。
8 子供の頃になりたかったのは?
大人。
9 高校・大学の頃、月に何枚くらいレコードを買っていましたか?
高校の頃は、そんなに小遣いもなかったのでそれほど買っていませんでした。大学時代は、10枚程度でしょうか。アルバイトのお金が入ると、中古屋さんに急ぎ、いろいろ探すのが楽しくてたまりませんでした。あとは、友人たちと持っていないアルバムを互いに交換したりしながら聴いていました。
10 進学先に大阪外国語大学を選んだ理由は?
海外の文化に興味があったのがいちばんの理由です。ただ、英語のような主要学科は入試に厳しそうだったのと、司馬遼太郎さんの母校で出身学科だったモンゴル語学科を選びました。卒業後、仕事でウランバートルを訪問したときは感慨深いものがありました。
11 どんな学生時代を過ごしましたか?
ごくありふれた学生生活だったかと思います。学園紛争が活発なころで、学校が封鎖されたり、授業がなくなったりすることが多く、そればかりが理由だとは限らないのですが、次第に学校から遠のき、ロックに夢中になっていったような気がします。時間を持て余し、麻雀やアルバイトで時間を潰したり、学校のそばの喫茶店で、一人で、あるときは友人たちと一緒に、ジュークボックスとコーヒーで生産性のない時を過ごしていました。
12 日本のロックやフォークは聞いていましたか?
岡林信康、吉田拓郎、高田渡、休みの国、はっぴいえんど、ガロ、六文銭、五輪真弓、加川良などを聴いていました。1971年の第3回中津川フォークジャンボリーで、初めてみたはっぴいえんどが印象に残っています。
13 初めて観たコンサートは?
同じ1971年だったと思いますが、エルトン・ジョンの大阪公演でした。
14 過去にさかのぼって1つだけ好きなコンサートを観られるとしたら?
1967年のモンタレー・ポップ・フェスティヴァルですかね。
15 もしメンバーになれるとしたら、どのグループに入ってみたい?
以前同じような質問にビートルズと答えた記憶があるんですが、いまは恐れ多くて特にありません。
16 髪型や服装などで影響を受けたミュージシャンは?
70年代初期のニール・ヤングでしょうか。 彼の伝記本に、初来日公演の様子を振り返ったところがあって、彼と同じような格好をした若者が沢山いて驚いたという記述があるんですが、正しく、その一人でした。
お気に入りだった
17 音楽に関わる仕事を始めることになった経緯を教えてください
大学生4年生のときに、仲が良かった友人と一緒に卒論だけ残してもう1年遊ぶことにしたんですが、その友人が『ミュージック・ライフ』の別冊だったと思いますが、編集部員の募集記事を見つけて、教えてくれたのがきっかけです。それで、シンコーミュージックに面接に行きました。
18 シンコーミュージックに入社していなかったら何をしていたと思いますか?
留年せずにそのまま卒業していたら、入社が決まっていた広告代理店で働いていたと思います。それが続いたかどうかはわかりませんが、とりあえずは。
19 最初に書いた原稿/最初にインタビューしたミュージシャンは?
どちらも忘れました、というか、正確には覚えていません。入社してすぐ、『プラス・ワン』という雑誌の編集部に配属されたんですが、そこで、ブルース・スプリングスティーン、ニッティ・グリティ・ダート・バンド、高田渡等の記事を書いたのは覚えています。
インタビューでは、1976年に、『ヤング・ギター』の編集部時代に編集長の山本隆士さんに同行したロサンゼルスで、ファイアーフォールにインタビューしたのが海外取材の最初ということもあり印象に残っています。
20 シンコー時代の日々のルーチンを教えてください
もう忘れましたが、普通の会社員よりは少し自由というか、緩めの時間で行動していたような気がします。月刊雑誌の編集部勤務だったので、昼夜の境はなく、原稿をいただきにいろんなかたの自宅や仕事場まで行ったり、空き時間ができた時はレコード会社を訪ねたりと、なにやかやで忙しかった記憶はあります。
深夜、ニッポン放送のスタジオに亀淵昭信さんの原稿をいただきに行ったり、作家の田中小実昌さんにご自宅で原稿をいただき、そのまま新宿ゴールデン街のバーに連れて行っていただいたり、楽しいことが多かったです。
21 シンコーの先輩・同僚の思い出や逸話は?
最初の編集部『プラス・ワン』は、編集のプロというよりは、ロック好きな素人の若者たちの集まりみたいで、忙しかったけど、初めての体験ばかりで楽しかったですね。
また、社屋が新しく変わったときに、一度、守衛さんから入館を止められたことがありました。汚い格好をしていたんでしょうね、それで、守衛さんが『ミュージック・ライフ』に内線電話で問い合わせたところ、東郷かおる子さんが、うちの編集部員だから大丈夫だと答えてくださったのが、笑い話として覚えています。ぼくが会社勤めしたのは、シンコーでの約3年だけなので先輩、同僚ともに懐かしいかたばかりです。
22 長髪をやめたのは何歳ですか?
覚えていません。
月刊誌『プラス・ワン』の創刊号は1973年3月号(3月20日発売)で値段は200円。5月号からはタイトルは『ぷらす・わん』、同年10月号から『PLUS ONE』に変更。編集長が水上はるこさんに交代し値段も250円に。毎号、編集後記に部員の短いメッセージを掲載、天辰さんは<ブン>という名前の表記。翌74年3月号をもって休刊。最終号には「プラス・ワン読者の皆様へ」と題されたメッセージが巻末に綴じられていた。
23 ジンクスはありますか?
特にありません、いまも、むかしも。
24 会社を辞めてフリーランスになった経緯を教えてください
直接、何が原因とかそういうのはなかったんですが、雑誌編集の仕事もそろそろかなと、漠然と思ったので。辞めさせください、とお願いしました。その後、どうしようと思っていたら、レコード会社や音楽雑誌のかたたちから原稿書かないかと声をかけていただいたので、ずるずると。既に、ライナーノーツや社外の雑誌で原稿は書いていましたけど。
25 原稿を書くのは早い・遅い?
いまもむかしも早いとは思いませんが、原稿をとばしたことはないので、普通じゃないでしょうか。反論があちこちからとんできそうですが(笑)。
26 音楽を紹介する際に使わないように心がけている言葉・表現はありますか?
特にありませんが、音楽に限らず、普段から好きになれない言葉、表現なので、「ヤバイ」という言葉は使ったことがありません。
27 印象に残っている仕事、印象に残っているミュージシャンは?
2012年にビーチ・ボーイズが、新作『神が創りしラジオ(That’s Why God Made The Radio)』を携えて来日したんですが、全員とインタビューする機会をいただきました。そのとき、ホテルの部屋でメンバーを待っていると、ブライアン・ウィルソンだけが早くきて、真正面にブライアンが座り、ぼくと二人きりの時間が生まれました。折角の機会だから、いろいろ質問したりすれば良かったんですが、何も喋ることができずに、沈黙の時間を二人で共有したんです。5分もない、ほんの短い時間だったんですが、ぼくにはそれがちょっとした奇跡のような、そのときのアルバムにちなんで、神様が創ってくれた時間と勝手に呼んでいます。
28 一番好きなミュージシャンは?
ニール・ヤングでしょうか。
29 音楽関連の書籍でお薦めを教えてください
『ボブ・ディラン/アンソニー・スカデュト著 小林宏明訳』、『ビートルズ/ハンター・デヴィス著 小笠原豊樹、中田耕治訳』、『ボブ・ディラン全詩集1962-2001 中川五郎訳』、『アメリカ音楽は民族音楽だった~9人の魂の冒険者たち/柿沼敏江著』、『アローン・トゥゲザー/北中正和著』、『ボサノヴァの歴史/ルイ・カストロ著 国安真奈訳』、『「戦後」美空ひばりとその時代/本田靖春著』、『リズム&ブルースの死/ネルソン・ジョージ著 林田ひめじ訳』、『インスピレーション/ポール・ゾロ著 丸山京子訳』、『グレン・グールドの生涯/オットー・フリードリック著 宮澤淳一訳』、『ロックンロール・コンフィデンシャル/デイヴ・マーシュ編 小島希里、大橋悦子、福山敦夫訳』、『ニューヨーク・ブルース/ポール・ウィリアムズ著 真崎義博訳』、『ボブ・ディラン自伝/ボブ・ディラン著 菅野ヘッケル訳』、『レコード・マンの世紀/飯塚恆雄著』、『グリニッチヴィレッジの青春/スージー・ロトロ著 菅野ヘッケル訳』、『アトランティック・レコード物語/ドロシー・ウェイド&ジャスティン・ピカーディー著 林田ひめじ訳』、『リトル・フィート物語/ベン・フォン・トーレス著 丸山京子訳』、『路上/ジャック・ケルアック著 福田実訳』、『カラワン楽団の冒険/ウィラ・サク・スントンシー著 荘司和子訳』、『ビギン・ザ・ビギン/和田誠著』等々、思いつくままに。
30 一枚だけ選ぶとしたら、一番好きなアルバムは?
ありきたりですが、ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』ですかね。
31 「有名ではないが自分にとっては名盤」というのはありますか?
いまは、昔と違って情報が多いので、有名ではないことで有名になった名盤とされるアルバムが幾つも存在するような気がします。例えば、名盤とか大袈裟な表現とはもっとも遠いところにあるアルバムですが、カナダのシンガー・ソングライター、Luke Gibson の『Another Perfect Day』は、50年以上、聴き続けている1枚です。トロントのバンド、ケンジントン・マーケットにいた人の、初の、そして確か最後のソロ・アルバムです。カナダといえばこのレーベルだった Truenorth Records からでした。ブルース・コバーンに引っ張られるようにカナダの人たちに興味をもって集めたアルバムの中の1枚で、輸入盤で注文して送ってもらいました。
ヤマハ音楽祭モンゴル大会の取材
32 好きな(好きだった)映画・俳優・女優は?
スティーヴ・マックイーン、エリオット・グールド、マリリン・モンロー、ウィレム・デフォー、ジャン・ポール・ベルモンド、シャーリーズ・セロン、フィリップ・シーモア・ホフマン、アル・パチーノ、ジョアンナ・シムカス、ベニチオ・デル・トロ、レア・セドゥ、赤木圭一郎、芦川いづみ、浅丘ルリ子、宇野重吉、高品格、笠智衆、加賀まりこ、片岡千恵蔵、池部良、西村晃、市川雷蔵、成田三樹夫等々、思いつくままにあげてみました。
『第三の男』、『ブリット』、『ロング・グッドバイ』、『冒険者たち』、『ハロルドとモード:少年は虹を渡る』、『アメリカン・グラフィティ』、『007シリーズ』、『ウエスト・サイド物語』、『夜の大捜査線』、『麻雀放浪記』、『乳母車』、『乾いた花』、『霧笛が俺を呼んでいる』、『秋刀魚の味』、『洲崎パラダイス赤信号』、『昭和残侠伝シリーズ』、こちらもまだ沢山ありそうだけど。
33 好きな(好きだった)小説家・作品は?
井上ひさし、山川方夫、松本清張、梶龍雄、司馬遼太郎、池波正太郎、椎名誠、藤沢周平、北杜夫、芝木好子、堀辰雄、丸谷才一、小林信彦、高田郁、宮部みゆき、アーネスト・ヘミングウェイ、ジェイムズ・ボールドウィン、J.M.G.ル・クレジオ等々。
『隅田川暮色/芝木好子』、『少年/北杜夫』、『他人の夏/山川方夫』、『海を見ないで陸を見よう/梶龍雄』、『午後の最後の芝生/村上春樹(『中国行のスロウ・ボート』)』、『ギャンブラー、尼僧、ラジオ/アーネスト・ヘミングウェイ著 柴田元幸訳(『こころ朗らなれ、誰もみな』)』、『終末ぎりぎりの出来事/デイヴィッド・パウナル著 野崎孝訳(『雨の日の釣師のために/D&Gパウエル・開高健編収録)』。『竜馬がゆく/司馬遼太郎』、『すべての見えない光/アンソニー・ドーア著 藤井光訳』。
34 著書『ウエストコースト音楽百科』の思い出を教えてください
吉成伸幸さんとの共著ですが、二人で沢山の写真を、これが誰だとか、いや違うとか、編集のかたを交えながら作業していたときのことや、もっと紹介したいアルバムが沢山あるのに削らないといけなくて、悩みながらアルバムを選んだり、いろんなことが思い出されます。いまだとパソコンですぐに調べられることも、当時(1983年)は新聞や雑誌や書籍やレコード、それのライナーノーツなどをいちいち引っ張り出し、時間がかかったし、本の中には間違いも少なくないと思います。あそこは直したかったね、と、二人でいまだに話題にする箇所が幾つかあります。改訂版というか、続編のようなものが出せればいちばん良いのですが。
35 人生で影響を受けた人はいますか?
特にこの人となると、名をあげるのは難しいですが、沢山の方たちから影響や刺激を受けていると思います。
36 趣味の釣りを始めたきっかけは?今までで一番の釣果は?
30代に心臓手術をしたとき、そのリハビリを兼ねてしばらく療養生活を送りました。そのときの日課が散歩で、近くの海でおじさんたちが楽しそうに釣っていたのを見て、見様見真似で始めました。その後、クロダイやメジナのウキフカセ釣りが好きになり、房総半島の地磯に通うようになりました。車の運転免許をとったのも、こうやって釣りをするようになってからでした。一番の釣果は、クロダイの48cmくらいですかね。下手ですから。
37 福岡県以外で住んだことのある街は?
学生時代に大阪府、その後東京都、そして千葉県。
38 好きな日本の街 / 好きな海外の街は?
房総半島の海辺の御宿。一時期というか、30年近く釣りの拠点にして、夏休みやまとまった休みがとれると滞在し、それ以外にも週に一度は通っていました。海外となると、若いころ、音楽が大きな要因なのはもちろんですが、カリフォルニアに憧れたときがあります。デヴィッド・ジャンセンのテレビドラマで、『追跡者(追跡者ハリー・オー)』というのがあって、警察官くずれの気ままな私立探偵が、カリフォルニアの海岸で一人暮らしをしていて、隣人にCAのファラ・フォーセット・メジャースがいて仲が良いというドラマですが、こういう暮らしができたらいいなあ、と(笑)。大人になってからは、マウイ島が好きです。
39 大事にしている物はありますか?
大事に使っているかどうかはわからないけど、filofax のスケジュール帳と moleskine の手帳は30年以上使っています。
40 阪神ファンをやっていて良かったこと/良くなかったことは?
良かった、と思えることはとくにない気がしますが(笑)、2回も日本一になったことは喜ぶべきかもしれませんね。勝っても負けてもストレスばかりため込むので、良くなかったことのほうが多くて、家人からは、文句ばかり言いながらテレビ中継をみるので、嫌がられています(笑)。
41 人前で楽器を演奏したり、歌を唄ったことはありますか?
ありません。
42 好きな食べ物/嫌いな食べ物を教えてください
好きな食べ物かぁ、大雑把に言えば、和食と呼ばれるものが好きかも。嫌いなのはほとんどないけど、匂いのきついのは苦手です。
43 苦手なものは何ですか?
台風。地震。人混み。
44 北中正和さんとのシルバークリケッツが長続きしている秘訣は?
これと言って秘訣のようなものがないからではないでしょうか。
45 長期連載中の北海道新聞のコラムに関して教えてください
音楽の連載コラムをやりませんか、と声をかけていただき、1999年に始めて25年、いつのまにか1100回を超えました。音楽に関してであれば何を題材にしてもいい、ミュージシャンはもちろんですが、例えば、ジャンル、アルバム、楽曲、楽器、場所、事件等々、全く制約なく書かせてもらっていて、それだけでも、感謝しかありません。
長い間、夕刊に掲載させていただいてました。朝刊と違って音楽や文学や映画等を含めた文化、藝術、芸能を通してその時代を照らし出していく、それが夕刊の魅力でした。だから、そこで書かせていただくというのに、誇りのようなものを感じていたので、昨年2023年9月いっぱいで、夕刊がなくなったときは残念でなりませんでした。
それでも、いまもなお朝刊で続けさせていただいています。最初は、居心地がなんとなく落ち着きませんでしたが、とても感謝しています。最初から掲載された全ての記事をとってくださっている読者のかたがいたり、函館や札幌のレコード店で、紹介したアルバムのコーナーができたりしたこともあって、この連載は、ぼくに沢山の物語を編んでくれています。
連載中のコラム<天辰保文の音楽アラカルト>は無料会員に登録すると北海道新聞デジタルのサイトで読むことができます。
46 今まで参加したイベントで思い出に残っているものを教えてください
人前で喋ったりするのが苦手だったので、一つ一つが思い出深いといえば深い、そんな感じです。その中でも、随分昔の若いころ、1980年代だったと思いますが、母校の大学の後輩が東京まで訪ねてきて、学園祭に来てくださいと。それで、母校の学園祭でレコードをかけながらお喋りしたのが印象深く残っています。
それと、連載600回を記念して、2012年4月10日、北海道新聞が主催してくださった札幌時計台ホールでの仲井戸麗市さんとのイベントも、忘れられません。しかも、これには後日談があって、2024年の今年、全く同じ日に仲井戸さんのDJイベントに声をかけていただいて出演。このときは、東京から札幌まで来てくださった方たちも数人いらっしゃってて、いっそう感慨深いものがありました。
47 生涯で最高の経験を教えてください
まだありません。
48 今、一番好きなものは何ですか?
なんだろう、探してみます。
49 これからしたいことは?
これから先の時間は限られているので、なんとか、新しい本を形にしたいと思っていますが、はてさて、、、。それに、したいというよりは、せねばならないだろうなということでは、レコードやCDや書物の整理をやっておかなければ、残された家族も困るだろうと思っています。
50 この場を借りて(使って)伝えておきたいことは?
特にありません。
あっ、拙著「ゴールド・ラッシュのあとで」、「音が聞こえる」(文・天辰保文、写真・高木あつ子)も、何処かで見かけたら手に取ってみてください、、、。
51 最後に感謝の言葉を
なんだか、遺言のような気がしてきましたが(笑)、ともあれ、いつもありがとうございます。